Prologue

───時よ動け、汝に美を賜う


水滴の音がする。
遠くで近くで、不規則に、しかし滴り続ける赤い水。
それは貴方の生き血なのだと薄らぼんやり認識しながら、貴方は昏い天を見上げていた。
否、底なしの奈落を見下ろしていたのかもしれない。

眼前に落ちて来た深紅の一滴が不意に飛散して、闇が歪み、ひとりの女のような生き物を形作る。
女は貴方を覗き込みながら、耳に纏わりつく嗄れ声で囁いた。

「…あらあら。"あの御方"の帰還に付いてきてしまったのですってね」

──帰還。その言葉を反芻する。
そういえば船上で嵐を呼んだ男も似たようなことを言っていた。

雲一つない快晴、穏やかに凪いだ海。
貴方は修学旅行先のイタリアで、海峡を渡るためクラスメイトたちとフェリーに乗っていた。
ひとりの男が船首に立ったのを誰かが注意したときに、その男は言ったのだ。うちに帰るのだと。
刹那、世界は嵐に襲われた。
風は悲鳴をあげ、雷は怒号を轟かせ、荒れ狂う海はその声に応えて渦を巻く。
深淵から湧き上がるうねりが船をまるごと飲み込んで───
貴方の目が最後に映したのは、船首の男の背から広がる6枚の漆黒の翼だった。

そして、気づけばこの闇の中にいる。
体が動かない、というより貴方の体が見当たらない。意識だけが此処にあって、眼前の女を見ている。

「此処は"パンデモニウム"。地獄にたゆとう美しき万魔殿。"あの御方"の"おうち"ですわ」
「…そう、貴方は地獄へいらしたのです。地獄に肉体は必要ございません。貴方は今、無垢な魂の姿をしています」

ならば体はどうなったのだろう。
問いかけたのか考えただけなのかは定かでないが、女は理解して笑う。

「ご安心くださいませ。我らが美味しく頂戴しますから、決して無駄に致しません」

美味しく?

「古今東西の地獄から貴賓をお招きして饗宴を催しますの。そこでステーキに致します。わたくしも楽しみですわ」

突っ込みどころはさておき、これからずっと魂になってしまうのだろうか。

「いいえ。肉体との縁が切れておりませんから、肉体が灼かれれば魂の貴方も燃え尽きますわね」
「ですから巻き添えのお詫びに、消滅までは自由に遊んでくれて構わないと"あの御方"がお許しになりました」
「主命によりわたくし、貴方を迎えに来ましたの。まいりましょ───、 …あら?」

女を引き留めたのは、貴方の拒絶。
肉体を返せ、元の世界へ帰せという意思を、女は否定しない。ならば代償を差し出せ、とまた笑うのだ。

此処はパンデモニウム。とある悪魔とその眷属が住まう箱庭。
いい加減、天界との戦いにも人間の蹂躙にも飽いてしまった悪魔たちに訪れているのは、空前のグルメブーム。
彼らを佳肴の味に溺れさせることができれば、肉体を取り戻し地上に戻ることができるだろう。

「我が名は"メフィストフェレス"」

女は紡ぐ、契約の詩を。

「さあ、お前、 我らに至高の食の美を捧げるのだ。さすれば地獄の業火より解き放たれるだろう」



    右手に包丁 左手にはフライパン

           北へ南へジビエを求め 幻のスパイスを探して東へ西へ

      地獄の釜の火加減はお好みのまま


果たして、高校生たちは、悪魔を虜にする至高の一皿を仕立てることができるのか




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